通知欄に心臓を預けるな
認められたいまま、それでも自分の足で進むために
どうも、久我レイジです。
人って、なんでこんなに認められたいんでしょうね。
誰かと比べて落ち込んだり、自分より評価されている人を見て、心の奥が少しザワついたりすることがあります。本当は素直に「すごい」と言いたいのに、どこかで引っかかってしまう自分がいて、そんな自分にまた少し嫌になる。
僕も創作をしているので、この感覚はけっこう身近にあります。
作品を作って外に出している以上、見てほしいし、届いてほしいし、できれば「良かった」と言ってもらいたい。反応があれば嬉しいし、反応が少なければ、やっぱり少し寂しいです。
ここは、きれいごとでは消せません。
ただ最近思うのは、承認欲求そのものは悪じゃないということです。
もともと人間は、集団の中で生きてきた生き物です。仲間に認められること、必要とされること、自分の役割があることは、昔の人にとって生き残ることとかなり近い場所にあったはずなんですよね。
だから人には「認められたい」という感情が残っている。
これは欠陥というより、生きるために身についた機能なんだと思います。
問題は、その機能が今のSNSと相性が悪すぎることです。
昔なら、比べる相手は身近な数十人くらいだったかもしれません。でも今は、スマホを開けば、自分より先に結果を出している人がいくらでも流れてきます。
何万人ものフォロワーを持つ人、作品が一気に広がった人、後から始めたはずなのに、あっという間に遠くまで行ってしまったように見える人。
もちろん、その人たちにも見えない努力や積み重ねがあるのは分かっています。
分かっているんですけど、それでも心が追いつかないときがある。
脳はたぶん、SNSに流れてくる人たちを「同じ場所にいる人」として受け取ってしまうんですよね。実際にはスタート地点も、環境も、積み上げてきた時間も違うのに、画面の中では全部が横並びに見えてしまう。
だから気づくと、自分の現在地ではなく、誰かの頂上ばかり見てしまう。
ここで厄介なのは、数字を見ない方がいいと分かっていても、公開したあとに反応を見に行ってしまう自分がいることです。通知を開いて、反応を確認して、少し安心したり、逆に勝手に落ち込んだりする。
たぶん、発信している人なら、多少なりとも身に覚えがあるんじゃないでしょうか。
そして、そこで嫉妬も生まれます。
嫉妬って、あまりきれいな感情ではありません。できれば持ちたくないし、持っている自分を見たくない。でも、嫉妬を感じたからといって、自分が悪い人間になったわけではないとも思っています。
嫉妬の奥には、たぶん「あれが欲しい」という気持ちがあります。
本当は自分も挑戦したいし、本当は自分も評価されたいし、自分の作品も誰かの心にちゃんと届いてほしい。そういう願望があるから、他人の結果を見たときに胸がチクッとする。
ただ、ここで少し気をつけたいのは、嫉妬を前向きなサインに変えるには、まず自分が嫉妬していると認める必要があるということです。
ここを誤魔化すと、いつの間にか相手への批判になったり、自分が動かない理由探しになったりします。僕も含めて、人はけっこう簡単にそういう方向へ逃げてしまう。
「あの人は運が良かっただけ」「環境に恵まれていただけ」と言いたくなる気持ちは分かりますし、実際に条件や運の差があることも否定できません。
でも、その言葉だけで終わらせてしまうと、自分の中にあった「本当はそこへ行きたい」という気持ちまで見えなくなる。
だから嫉妬を感じたとき、相手を責めるより先に、自分はいま何を欲しがっているのかを見た方がいいのかもしれません。もちろん、そんなにすぐ冷静にはなれませんけどね。頭では分かっていても、心が追いつかない日もあります。
創作者は、特にこのあたりが難しいと思います。
作品は、誰にも見られなくても作れます。けれど、誰かに届いたときに初めて完成する部分もあります。僕も脚本を書いたり、映像を作ったり、発信を続けたりする中で、数字をまったく見ないなんてことはできません。
自分の作品が見られているのか、届いているのか、誰かの中に少しでも残っているのか。そういうことは、どうしたって気になります。
だから承認欲求をゼロにする必要なんてないと思っています。作品を外に出している以上、認められたい気持ちは自然なものだし、その気持ちがあるから、もう一歩だけ踏ん張れることもある。
ただ、一つだけ気をつけたいことがあります。
承認欲求をエンジンにするのはいい。
でも、ハンドルまで握らせてはいけない。
認められたいから頑張れる。反応があるから続けられる。数字が伸びたから、もう少しやってみようと思える。それは確かにあります。
でも、その気持ちに進む方向まで決めさせてしまうと、自分が作りたいものではなく、数字が取れそうなものだけを追いかけるようになります。
数字を見ることも、届ける努力をすることも大事です。ただ、数字だけを見て走り続けると、いつの間にか自分がどこへ行きたかったのか分からなくなることがある。
ここが怖いところです。
だから最近は、他人と比べる時間を少し減らして、昨日の自分より少しでも作品に向き合えたか、言葉を届けようとしたか、そこを見るようにしています。
脚本を少し進めた。一本の記事を書いた。誰かの反応にちゃんと返した。作品のために、今日できる小さな作業を一つ終わらせた。
そういうものは、外から見ると小さく見えるかもしれません。でも、自分の中ではちゃんと積み上がっているし、その積み上げがあるから、次の日もまた机に向かえるんだと思います。
認められたい気持ちがあるから、人はもう少し頑張れる。誰かに届いてほしいと思うから、言葉を選ぶし、作品を磨くし、伝え方を考える。
嫉妬も同じです。
嫉妬した瞬間は苦しいけれど、その奥には「本当は自分もそこへ行きたい」という願いがあります。だったら、その感情をただ嫌うのではなく、自分が進みたい方向を教えてくれるサインとして見てもいいのかもしれません。
誰かと比べてしまう日があってもいいし、心がザワつく日があってもいい。
それでも、そこで終わらせずに、「じゃあ僕は今日、何を一つ進めようか」と考えられたら、たぶんそれだけで十分前に進んでいます。
人は、完全にまっすぐな気持ちだけで創作しているわけではありません。認められたい気持ちもあるし、悔しさもあるし、誰かに届いてほしいという願いもある。その全部を抱えたまま、それでも手を動かしていく。
僕は、それでいいと思っています。
他人との比較で自分を削るのではなく、昨日の自分との比較で、少しずつ自分を育てていくこと。たぶん、創作も発信も、その繰り返しなんだと思います。
今日の一歩は、誰にも気づかれないかもしれません。でも、その一歩を自分だけは見ているし、その小さな積み重ねがいつか、誰かに届く作品や言葉になっていく。
だから、認められたい気持ちも、比べてしまう自分も、抱えたままでいい。
その感情に振り回されるのではなく、今日の一歩に変えられたなら、それはもう十分に、続ける理由になるんじゃないでしょうか。



久我さん、おはようございます。
まさに今、投稿したんですが、昨日、記事を投稿した後に、動けなくなったんです。
書いてる時は楽しくて仕方なかったのに、投稿した後は通知ばかり気にするようになってしまって。
頭では、通知ばかり気にしたって何にもならないのはわかってるんですけど、やっぱ、気になるんですよね。
レイジさん、おはようございます🌷
承認欲求も嫉妬も、私も決して悪いものではないと思ってます。使い方を間違えると心をもっていかれるけど、間違わなければ良い契機になりますよね✨️どんな感情もまずは認めてあげて、プラスの力に変えた行けたらいいなと思います☺️