アルゴリズム様、僕の創作は早食い競争ではありません
どうも、久我レイジです。
昔のTwitterには、人生の予定に入っていなかったDMが届くことがありました。
ちょっと大げさに聞こえるかもしれませんが、僕にとっては本当にそうでした。
三、四年前、Twitter経由でメディア系の方からDMをいただくことがありました。そこからTV出演の話につながったり、実際に出版社で講演をさせてもらったこともあります。
それだけではなく、大学の学会で、自分の作品を発表していただく機会までありました。
今思い返しても、なかなか不思議な流れです。
もちろん、全部が大きな仕事につながったわけではありません。話が途中で止まったものもありますし、相談のまま終わったものもあります。
それでも、個人で活動していても、ちゃんと誰かの目に留まる可能性があったんですよね。
フォロワー数が圧倒的に多いとか、すでに有名人だとか、そういうことだけではなくて。
何か変わったことをしている人や、熱量を持って続けている人、まだ世の中にあまりない活動を、よくわからないまま走らせている人。
そういう人が、ふと誰かに見つかる。
昔のTwitterには、そういう偶然の入口が少し残っていたように思います。
でも、今のXはかなり空気が変わりました。
これは、単に昔を懐かしんでいるだけではありません。今もXには人がいますし、反応が生まれる瞬間もあります。作品づくりの途中の温度や、ふとした一言に誰かが反応してくれる感じは、今でもXならではのものがあります。
ただ、昔と同じ場所だと思って使っていると、少しズレる。
今のXでは、「人」そのものよりも、「反応されやすい投稿」が前に出やすくなっているように見えます。短い時間で数字が動く投稿や、少し強い言葉を使ったもの、誰かが思わず反応したくなるような話題が、どうしても流れの中心に来やすい。
それが悪いとは言い切れません。
SNSである以上、多くの人が反応するものが広がるのは自然なことですし、そこに乗れる人は今でも強い。
ただ、その流れが強くなるほど、静かに積み上げている創作や、長い時間をかけて育てている活動は、少しずつ見えにくくなっていく。
たぶん、ここが昔のTwitterとの大きな違いなんですよね。
特に僕のように、メタバースでドラマを作っているような活動は、一瞬で説明しづらいところがあります。
「メタバースドラマを作っています」と言っても、多くの人はすぐには絵が浮かばないと思います。
でも、実際にはそこに脚本があって、演出があって、アバターがいて、カメラがあって、役者さんがいて、音楽があって、撮影現場があります。
メタバース空間の中で人が集まり、役を演じ、カメラを回し、ひとつの物語を作っていく。
これを一言で伝えるのは、なかなか難しい。
僕が作っているメタバースドラマ『クロスロード』は、三年半かけてようやく最終回までたどり着いた作品です。
脚本を書いて、アバターを作って、メタバース空間で撮影して、編集して、音楽を合わせて、イベントとして届ける。
外から見ると「動画を投稿している人」に見えるかもしれませんが、実際にはかなり長い時間をかけて、少しずつ積み上げてきたものです。
でも、SNSのタイムラインでは、その三年半も一瞬で流れていく。
これは少し極端な言い方かもしれませんが、今のXで作品を届けようとすると、三年半かけた物語を「数秒で飲み込んでください」と差し出しているような感覚になることがあります。
作品づくりは、早食い競争ではないんですよね。
だから、アルゴリズムの速度だけに合わせていると、自分の創作の呼吸までどんどん短くなってしまう。
ここが、今のXに対して僕が感じている一番の怖さなのかもしれません。
だからこそ、本当は少し時間をかけて見てもらいたいんです。
けれど、その面白さが届く前に、タイムラインの速度に飲まれてしまうことがある。
これは少し、もったいないなと思います。
たぶん、これは僕だけの話ではないんですよね。
長く続けている個人クリエイターほど、似たような感覚を持っているのではないかと思います。作っているものの奥行きよりも、反応されやすい言葉のほうが先に届いてしまうことがある。
もちろん、それが全部悪いとは思っていません。
でも、そこだけで勝負し続けるのは、かなりしんどい。
メディア側も、きっと変わってきています。
昔は、Twitterで話題になったものをメディアが拾い、それが記事になって、そこからまた大きく広がっていく流れがありました。
個人の変わった活動や、まだ世の中に名前のついていないような動きが、Twitterをきっかけに外へ出ていく。僕自身が受け取ったDMも、たぶんその流れの中にあったのだと思います。
でも今は、以前ほど「Xで見つけて、記事にして、そこから広げる」という流れに期待しづらくなっている。
Xから外部サイトへの導線は弱く感じますし、検索もAI回答の影響で、記事そのものまで読みに行く人が減ってきている。そうなると、メディア側にとっても、Xで面白い人を探す意味合いが少し変わってくる。
少なくとも、僕の体感ではそうです。
昔より、偶然のDMは明らかに減りました。
何かを続けていても、それが自然に外へ広がっていく感じは薄くなった。
ただ、だからといって、もう個人が見つけられる場所がなくなったとは思っていません。
場所が変わってきているだけなのかもしれない。
そのひとつが、Substackなのだと思います。
Substackの強さは、タイムラインで一瞬だけ流れることではなく、読者との線が切れにくいところにあります。
SNSでは、フォローしていても投稿を見逃すことがあります。流れが速ければ速いほど、どれだけ大事なことを書いても、その人の目に入らないまま過ぎていく。
でもSubstackは、「この人の文章を読みたい」と思って購読してくれた人との関係が、もう少し近い。
これは、実際に使ってみると想像以上に大きいです。
Xでは、フォロワーがいても全員に届くわけではありません。むしろ、届かない前提で考えたほうがいいくらいです。
その点、Substackはタイムラインの機嫌だけに頼らなくていい。
ここに、今の時代ならではの価値があると思っています。
海外では、記者や編集者のような人たちが、自分の読者を持つためにSubstackへ移っている流れもあります。
それも自然な話です。
広告やアルゴリズムに振り回されるより、自分の読者と直接つながれる場所のほうが、今の時代には合っている。大きな数字を一瞬で取りに行くより、濃い読者に継続して読んでもらうほうが、長く活動を続ける人には向いているのかもしれません。
これは、個人クリエイターにとってもかなり大事な感覚です。
日本のSubstackは、まだ人が多いとは言えません。
でも、だからこそ面白い。
どこか昔のTwitterや、初期のnoteに近い空気があります。
まだ全員が攻略法を探しているわけではなく、数字の取り合いにもなりきっていない。その人が何を考えていて、何を作っていて、どんな温度で発信しているのかが、比較的見えやすい。
僕のように、メタバースドラマやAIと創作、個人制作の裏側みたいな、少し説明に時間がかかる活動をしている人間には、むしろ合っているのかもしれません。
一瞬でわかりやすいものだけが強い場所ではなく、時間をかけて読んでもらえる場所。
そういう場所があるだけで、発信の仕方は少し変わってきます。
もちろん、Xをやめればいいという話ではありません。
XにはXの良さがあります。今の温度を出す場所としては、まだ強いです。作品を作っている途中の空気や、ふと感じたこと、誰かとのやり取りから生まれる熱みたいなものは、やっぱりXのほうが出しやすい。
ただ、それだけでは足りなくなってきている。
noteには、検索される形で考えを残せる。YouTubeには、作品そのものを置いておける。公式サイトは、初めて知ってくれた人が活動全体を見渡す入口になる。そしてSubstackは、そこからさらに一歩近い読者へ、自分の言葉を置きにいける場所になる。
それぞれに役割があって、どこか一つに全部を預ける時代では、もうないのだと思います。
昔のTwitterのように、偶然メディアに見つかって、そこから大きなチャンスが来る。
あの感じは、少し薄くなったのかもしれません。
でも、入口そのものが消えたわけではない。
たぶん、入口の場所が変わっただけなんですよね。
待っているだけでは、たぶん見つけてもらえない。
だったら、自分で見つけてもらえる場所を、少しずつ作っていくしかない。
そんなことを、最近Substackを触りながら考えています。


