黒歴史はちゃんと戦った人にしか残らない
どうも、久我レイジです。
夜、作業の合間に、ふと昔のブログ記事を開くことがあります。数行読んだところで、そっとタブを閉じてしまうんですよね。ああ、これはちょっと直視できないなと。
動画でも同じです。一年前に作ったシーンを見返すと、音の置き方も、台詞の間も、カメラの寄せ方も、今の僕なら絶対に選ばないものがたくさんあります。
メタバースドラマを作っていると、そういう瞬間には何度も出会います。当時は本気で、これが一番いいと思っていたはずなのに、今見ると間が少し早い。余韻が足りない。
ここで音を入れたら感情が説明っぽくなるのに、なぜ入れたんだろうと思う。
撮影後、同じカットを何度も見返した夜もありました。悪くはない。でも、何かが違う。キャラクターの感情が動く前に、こっちが先に音で答えを出してしまっている。
そう気づいた瞬間、胸の奥が少しだけムズッとするんです。
昔のSNSのポストを見返したときの気まずさにも近い、あの独特のざわつき。でも最近、この恥ずかしさは失敗の証拠ではなく、成長が今の自分に触れてくるときの温度なんじゃないかと思うようになりました。
ブログや創作の世界では、よく「量か質か」という話になります。量をこなせという人もいれば、質を磨けという人もいる。
どちらも間違いではないと思います。
ただ、続けてきて感じるのは、その二択よりもっと手前にあるものが人を育てるということです。
投稿前に迷った数秒。出した記事が伸びなくて落ち込んだ夜。何度撮っても、なぜかしっくりこなかったシーン。
公開したあとに「やっぱり少し違ったかもしれない」と感じる朝。
そういう小さな心の揺れが積み重なって、自分の中に少しずつ判断基準をつくっていくのだと思います。
量が大事なのは、単に数が増えるからではありません。揺れた心の数が増えることで、昨日まで拾えなかった違和感を拾えるようになるからです。
一年前の作品が下手に見えるのも、ただ技術が上がったからではない気がしています。もちろん技術もあります。
でもそれ以上に、当時は気づけなかった粗に、今の自分が反応できるようになった。
それは過去の自分がダメだったという話ではありません。あのときの自分は、そのとき持っていた全部で作っていた。
ただ、今の自分が、少しだけ先の場所から作品を見られるようになったということなんですよね。
積み重ねとは、ただ回数をこなすことではありません。うまくいかなかった悔しさ、何度直しても納得できなかった夜、反応が少なくて不安になった朝、それでも消さずに残した一行、それでも公開した一本。
そういうものが、作品の奥に残っていく。
質とは、完成度の高さだけではないと思っています。何を残して、何を削るのか。その判断が少しずつ変わっていくことも、質が育つということなのかもしれません。
だから、過去の文章が幼く見える。過去の動画が粗く見える。過去の自分が、少し遠くに見える。
それは恥ずかしいことだけど、恥ずかしく感じられる場所まで進んできたということでもあります。
今日書いているこの文章も、一年後に読んだら、きっと恥ずかしくなると思います。でも、それでいい。
未来の自分に恥ずかしがられるものを、今日残せているなら、それは前に進んでいる証拠だからです。
結局、数を重ねるというのは、恥ずかしさを増やすことでもあるのだと思います。でもその恥ずかしさがあるから、次に残すものが少しだけ変わっていく。
だから僕は、未来の自分に笑われるものを、今日も残していこうと思います。たった一行でもいいから、今日の自分をちゃんと置いていく。
その積み重ねが、いつか自分でも気づかないうちに、作品を見る力を変えてくれるはずです。



久我さん、こんにちは
「たった一行でもいいから、今日の自分をちゃんと置いていく」に共感します。
昨日の自分より一歩でも成長できたと感じたら、良いのかもしれません。
過去の自分の記事を見て、私も恥ずかしくなることよくあります。
きっと、当時の自分より、成長できたから、恥ずかしいと思うんだと考えることにしています(笑)
少しずつでも、今日の自分を精一杯生きて、積み重ねることが、望む未来への唯一の道かもしれないと思いました。
今回も、心が動く記事をありがとうございます🎶
noteの最初の頃の記事は、
もう、読みたくないですね🤣
積み重ねは、大切ですね!