天才になれなかった僕たちは、それでも作るのか。
どうも、久我レイジです。
今日はアニメ『左ききのエレン』について、少し話してみようと思います。
この作品を観て、僕は少し嫌な汗をかきました。面白かったから、というだけではありません。自分の中にある、あまり見たくない部分まで照らされたような気がしたからです。
クリエイターの端くれとして、僕もメタバースでドラマを作り、脚本を書き、映像を撮り、誰かに届くかどうか分からないものを今日も形にしています。
正直、届いているのか分からなくなる夜があります。
脚本を書いて、映像を撮って、何度も直して、それでも反応が静かなまま終わることもある。数字を見て、平気なふりをしながら落ち込むこともある。それでもまた次のカットを考えてしまう。たぶん、その時点で僕はもう、創作から逃げられないんだと思います。
『左ききのエレン』がクリエイターに刺さる理由は、天才の物語でありながら、天才になれなかった人たちの物語でもあるからだと思います。
圧倒的な才能を目の前にしたとき、人は自分の限界を知ります。努力では越えられない壁を感じることもある。それでも作ることをやめられない人間がいる。悔しくて、惨めで、情けなくて、それでも机に向かってしまう。
そこに、創作を続ける人間のどうしようもなさがあります。
僕は特に、光一のしんどさが刺さりました。
結果を出したい。認められたい。だけど、自分より先に遠くへ行ってしまう才能を見せつけられる。その焦りが、妙に生々しかったんです。
天才ではない。でも、諦めきれない。認められたいし、結果も欲しいし、自分の中にある何かを証明したい。その姿は、少し情けなくて、でも妙にリアルでした。見ていて苦しいのに、目を逸らせませんでした。
クリエイターは、ただ純粋に作りたいだけではいられません。見てほしい。認められたい。自分の名前で覚えてほしい。誰かの心に残りたい。そういう欲があるからこそ作れるし、その欲があるからこそ傷つきます。
『左ききのエレン』は、その自意識を綺麗ごとにしません。才能への嫉妬も、数字への焦りも、評価されない悔しさも、そのまま突きつけてくる。だから痛い。でも、その痛さが妙に信用できます。
創作は、理想だけでは続きません。現実には、納期があり、予算があり、評価があり、数字があります。自分が最高だと思ったものが、必ずしも届くとは限らない。
だからこそ、売れる形の中に、自分の魂をどれだけ滑り込ませられるかが問われるのだと思います。
僕は、創作には少し狂気が必要だと思っています。
誰にも頼まれていないのに細部が気になる。もう十分だと言われても、自分だけが納得できない。効率で考えれば、損な生き方かもしれません。
でも、その時間だけは、自分が確かにここにいる気がするんです。
『左ききのエレン』が突きつけてくるのは、才能があるかどうかだけではありません。
それでも作るのか。
たぶん、その問いです。
才能がないことより怖いのは、作る理由まで失ってしまうことだと思います。
天才になれなかった僕たちは、そこで終わりじゃない。悔しさも、嫉妬も、届かなかった現実も抱えたまま、それでも机に戻る。昨日より少しでも良くする。誰かの心に届くまで、もう一度作る。
創作を続けるというのは、きっとそういうことなんだと思います。
僕はたぶん、光一の痛さを笑えませんでした。でも、笑えないからこそ、今日もまた作るんだと思います。



久我さん、こんにちは
「左ききのエレン」見たことがないので、見てみたいと思いました。
「昨日より少しでも良くする。誰かの心に届くまで、もう一度作る。」共感します。
自分のペースで、少しでもよくなるように、コツコツと作っていく過程が、楽しいのかもしれないと思いました。
思考が深まる記事をありがとうございます☺️
レイジさん
「左ききのエレン」みてみたくなりました。
努力だけでは乗り越えられないもの、クリエイターさんの苦悩、それでも諦められなくて作ることが好きだからこそ、天才になれなかった人の物語は刺さるのかもしれませんね。