自分が自分を裏切らなかったという記録
どうも、久我レイジです。
創作って、たまに怖くなります。これだけ時間をかけて、本当に誰かに届くのか、この努力はちゃんとどこかに残るのかと考えてしまう日があるんです。
クリエイターという人たちは、本当にすごい熱量を持って制作していると思います。
音楽を作る人、絵を描く人、映像を作る人、舞台に立つ人、文章を書く人、他にもいろいろな形で何かを生み出している人がいますが、みんなきっと、ただ作業として作っているわけではないと思うんですよね。
こんな未来が開けたら、きっと面白い。
こんな作品が世に出たら、どんなことが起きるんだろう。
そんな想像をどこかで抱えながら、それぞれの場所で手を動かしているんじゃないかと思います。
少なくとも僕は、そうです。
メタバースドラマを作っている時も、まだ完成していない段階から、その先の景色を勝手に想像してしまいます。
このシーンを見た人は何を感じるんだろうとか、この物語が誰かの背中をほんの少しでも押したら面白いなとか、もしかしたらこの作品がきっかけで、今まで出会わなかった人とつながるかもしれないとか。
そんなことを考えながら、時間を削って、何度も撮影して、何度も編集して、また作り直しています。
ただ、創作の現場って、外から見えているほど綺麗なものではありません。
たとえば映像なら、たった1分のシーンを作るために、何時間も撮影することがあります。同じ場面を角度を変えて撮り直して、セリフの間を確認して、立ち位置を直して、あとで編集画面を開いたら「これ、思っていたより使えないな」となることもある。
そこからまた切って、並べて、音を合わせて、違和感を削っていく。
観る側からすれば一瞬で流れていく場面でも、作る側はその数秒のために何度も止まります。
たぶん、どの分野も同じなんだと思います。
絵なら線一本に迷うことがあるでしょうし、音楽なら一音の違和感が気になることもある。文章なら、たった一文がどうしても決まらなくて、何度も消しては書き直すことがある。
そうやって作っているのに、現実はそんなに簡単ではありません。
世の中には素晴らしい作品が山ほどあります。それなのに、多くのクリエイターは世に大きく評価されることなく活動を続けています。
ここは、けっこう残酷です。
どれだけ本気で作ったかなんて、世の中は毎回ちゃんと見てくれるわけではありません。
寝る時間を削ったとか、何度も修正したとか、裏でどれだけ悩んだとか、そういうものは作品を出した瞬間にはほとんど見えない。
見えるのは、数字だったり、反応だったり、拡散だったりします。
もちろん、それも大事です。作品を届けたいなら、数字から逃げすぎてもいけない。
でも、数字だけを見ていると、自分が何のために作っているのか見失いそうになることがあります。
たぶん、そこで折れてしまう人もいると思います。
それは仕方ないことです。
創作って、綺麗な言葉で語られることが多いけれど、実際にはかなりしんどい部分もありますから。
でも、それでも作り続ける人がいる。
なぜなんでしょうね。
もちろん、作ることが好きだからという理由はあると思います。ただ、僕はそれだけじゃない気がしています。
その努力は、たとえすぐ結果につながらなかったとしても、決して無駄にはならない。
誰も見ていなくても手を動かしたこと。反応が少なくても公開したこと。思うようにいかなくても、投げ出さなかったこと。
それは全部、自分が自分を裏切らなかったという記録なんですよね。
この記録は、他人には見えにくいです。フォロワー数みたいに表示されるわけでもないし、再生回数みたいに数字で確認できるわけでもない。
でも、自分だけは知っています。
あの日も作ったこと。眠くても直したこと。悔しくても、もう一回向き合ったこと。逃げようと思えば逃げられたのに、それでも作品の前に戻ってきたこと。
そういう積み重ねを、一番近くで見ているのは自分自身です。
だから、創作を続けた時間は少しずつ自分への信用になっていくんだと思います。今回ダメでも、また作れる。反応が薄くても、次に進める。一度崩れても、もう一回立て直せる。
そう思える土台が、自分の中にできていく。
評価や数字は、自分では完全にコントロールできません。
どれだけ本気で作っても、届かない時は届かない。タイミングもあるし、運もあるし、時代の空気もある。そこを全部、自分の努力不足だけで片付けてしまうと、心が削れてしまいます。
でも、今日も作るのか、それともここでやめるのか。その選択だけは、自分で決められる。
そして、その選択を積み重ねていくうちに、少しずつ育っていくものがあります。
技術もそうです。経験もそうです。言葉の重みや、作品への向き合い方も変わっていく。
でも一番大きいのは、やっぱり自分への信用なんじゃないかなと思います。
努力の過程で生まれるものは、もしかしたら結果そのものではなくて、未来の結果を受け取れる自分自身なのかもしれません。
結果が出た時に、ちゃんと受け取れる自分。チャンスが来た時に、逃げずに手を伸ばせる自分。誰かに見つかった時に、「僕はここまでやってきた」と言える自分。
そういう自分を、日々の創作が少しずつ作っている。
創作は、報われる保証なんてありません。ここは本当に、残酷なくらいありません。
でも、報われる保証がない中で、それでも作る人がいるんですよね。今日も描く人がいて、歌う人がいて、書く人がいて、撮る人がいて、演じる人がいる。
僕は、その姿がとても格好いいと思います。
もちろん、これを綺麗事だと感じる日もあります。
こんなに作っているのに、なんで届かないんだよと思う日もある。
それでも、また作品の前に戻ってくる。
結果が出る前から、もう価値はある。
なぜなら、その人は今日も自分との約束を守ったのだから。
その記録がある限り、僕らはまだ、次の作品の前に戻ってこられる。



久我レイジさん、はじめまして。こんなにも熱量を持ってCluster内で撮影された作品が存在したということを、久我さんのSubstackを通じて知りました。
私は2024年までMetaのメタバース部門でデベロッパー支援をしていたのですが、日本のメタバースユーザー発の取り組みをもっと世界に繋げられたらという気持ちはありつつも、具体的な取り組みに繋げられなかったことを残念に思っています。でも、こうした活動は草の根で行われるからこそ尊くて、世界を変えうる力を持つのだという考え方の同僚もいました。
久我さんの取り組みはきっと、想像以上の影響を未来にもたらすのだと思います。
SINGの、こあらのムーンさんのような立ち位置ですね✨
プロデューサー視点、とても参考になります😊