AIで作ったら叩かれる世界で、僕たちは何を作ればいいのか。
どうも、久我レイジです。
先日、AIを使って3Dモデルやメタバース空間のワールドを作り、それをSNSで公開した人が、かなり強い言葉で叩かれているのを見かけました。
それを見た時、正直に言うと、僕は少しだけ「世知辛い世の中だな」と感じました。
AIを使っただけで、その人の創作そのものまで否定されるなら、これから個人クリエイターは何を使えばいいんだろう。
そんなことを考えてしまったんです。
もちろん、批判する側の気持ちがまったく分からないわけではありません。
AIの学習元に対する不安はありますし、長年3D制作を続けてきた人からすれば、自分たちが時間をかけて積み上げてきた技術が、簡単に消費されているように見える瞬間もあると思います。
「AIで作ったものを、どこまで自分の作品と言っていいのか」という違和感もあるでしょう。
だから僕も、AIを使えば何をしてもいいとは思っていません。
他人の作品を自分のもののように見せたり、AIで出力したものを何の手も加えずに「全部自分が作りました」と見せたりするなら、それはやっぱり誠実ではありません。
問題があるとしたら、AIを使ったことそのものよりも、見せ方や伝え方、そして作り手としての責任の取り方なんじゃないでしょうか。
だからこそ、AIを使う側は、これまで技術を積み重ねてきたクリエイターへの敬意を忘れてはいけないし、どこにAIを使ったのかを必要に応じて説明できる誠実さも持つべきだと思います。
それでも僕は、AIを使ったという一点だけで、その作品や作った人そのものまで否定してしまう空気には、少し寂しさを感じます。
メタバースのワールド制作って、外から見るよりずっと大変です。
3Dモデルを用意して、空間を組み、ライティングを調整し、動線を考え、人が入った時にどこを見て、どう感じて、どう歩いていくのかまで設計していく必要があります。
しかも個人で制作している場合、そのすべてを一人、もしくは少人数で背負うことも珍しくありません。
僕自身、メタバースドラマを作っているので、この大変さはよく分かります。
ドラマひとつ作るだけでも、脚本を書いて、キャラクターを考えて、カット割りを作り、撮影場所を探し、衣装や小物を確認し、演者さんに動いてもらい、映像としてどう見せるかを何度も考えます。
そこにワールド制作まで加わると、必要な作業量は一気に増えます。
頭の中にある世界を形にしたいだけなのに、技術の壁、時間の壁、人手の壁にぶつかることは何度もあります。
だからこそ、AIを使うことで「自分にも作れるかもしれない」と思えた人が、最初の一歩を踏み出せるなら、それ自体は決して悪いことではないと思うんです。
僕も制作の中でAIを使うことがあります。
画像のイメージを作ったり、文章を整理したり、アイデアを広げたり、カットの雰囲気を確認したり。
僕の場合、AIで作ったカットイメージをそのまま作品に使うというより、頭の中にある映像をスタッフや演者さんに共有するためのラフに近い使い方をしています。
言葉だけでは伝わりにくい光の感じや、立ち位置、距離感、画面の空気を共有するための補助線として、AIを使っている感覚です。
ただ、AIが出してくれたものをそのまま作品にしているわけではありません。
最後に選ぶのは自分であり、違うと思えば直しますし、足りないと思えば足します。
世界観に合わないものは、どれだけ綺麗に出力されていても使いません。
AIは便利な道具ですが、作品の責任まで取ってくれるわけではないので、そこを勘違いすると、たぶん創作は薄くなります。
だから僕は、AIを使うこと自体よりも、AIに任せきりにして「自分は何を表現したかったのか」が消えてしまうことのほうが怖いです。
逆に言えば、AIを使っていたとしても、そこに作り手の意図や世界観、届けたい体験がちゃんとあるなら、それは創作として見てもいいんじゃないかと思っています。
大事なのは、AIを使ったかどうかではなく、その人が何を作りたかったのか。
そして、そのワールドに入った人が何を感じたのか。
そこなんじゃないでしょうか。
昔から、新しい道具が出てくるたびに、似たような議論は繰り返されてきたはずです。
デジタルで絵を描く人が増えた時も、CGが広がった時も、動画編集ソフトやゲームエンジンが一般化していった時も、最初は「それは本物の創作なのか」と言われる空気があったと思います。
でも今では、それらは当たり前の制作環境として受け入れられ、多くの作品を支える道具になっています。
たぶんAIも、その流れの中にあります。
もちろん、AIにはまだ整理されていない問題がたくさんあります。
著作権、学習元、クリエイターへの還元、表示の仕方、使い方の透明性。
そこを無視して「便利だから使えばいい」で済ませるのは危ないです。
だから、この話は「AIを使えば全部OK」という話ではありません。
AIによって生まれる問題を無視せず、それでも新しい創作の可能性をどう扱うかという話です。
問題があるからといって、AIを使って何かを作ろうとした人を最初から叩き潰していい理由にはならないと思うんです。
創作って、本来もっと自由でいいはずです。
でも今は、何か新しいものを使うたびに、「それはズルだ」「それは本物じゃない」「それはお前の作品じゃない」と言われてしまう空気があります。
もちろん、不誠実な見せ方をしているなら指摘は必要です。
でも、ただAIを使ったというだけで、作った人の人格まで否定するような言葉を投げるのは、批評ではなく、ただの石投げになってしまうんじゃないでしょうか。
せっかく個人でも大きな世界を作れる時代になりました。
昔なら、大きなチームや専門技術がなければ形にできなかったものを、今は一人のクリエイターでも少しずつ作れるようになっています。
メタバースのワールドも、ドラマも、音楽も、映像も、AIによって入口が広がっている部分は確かにあります。
その入口に立った人が、いきなり叩かれて心を折られてしまうなら、それは本当にもったいないです。
AIを使った創作に必要なのは、開き直りではなく、誠実さです。
「AIを使いました。でも、ここに自分の意図があります」
「この部分はAIに助けてもらいました。でも、こういう体験を届けたくて作りました」
そう言えるなら、僕はそれを創作として見たいです。
道具も作り方も、これからさらに変わっていくと思います。
この先、AIを使わない創作と、AIを使う創作は、もっと混ざっていくでしょう。
その時に必要なのは、AIを使った人を雑に叩くことではなく、何が問題で、何が可能性なのかを分けて考えることだと思うんです。
AIを使ったかどうかだけで創作を裁く時代には、僕は乗りたくありません。
見るべきなのは、その人が何を作り、何を届けようとしたのか。
そこを見ないまま叩くなら、それは創作への批評ではなく、ただの石投げです。
叩く前に、そこにどんな想いがあったのかを少しだけ想像できる世の中のほうが、僕は好きです。
そして僕自身も、AIを使うことに向き合いながら、ちゃんと自分の作品として責任を持てるものを作っていきたいと思っています。



久我さんの記事を読んで、AIを使った創作に対して、使う側にも誠実さが必要だという視点にはとても共感しました。特に、AIを使ったかどうかだけで、その人の創作や人格まで否定してしまう空気への違和感は、私も考えさせられました。
一方で、読んでいて少し感じたのは、AI創作に怒っている人たちが「何に対して怒っているのか」の輪郭が、もう少し分かれて見えると、さらに伝わりやすくなるのではないか、ということです。
たとえば、著作権や学習元への不安なのか。
既存クリエイターへの敬意が欠けているように見えることへの反発なのか。
AIで作ったものを、どこまで自分の作品として語るのかという違和感なのか。
それとも、AIを使った人への人格攻撃そのものへの問題意識なのか。
このあたりが少し整理されると、久我さんが本当に伝えたい「AIを使ったかどうかだけで裁くのではなく、その人が何を作ろうとしたのかを見るべき」という核が、より強く届くように感じました。
記事全体からは、作る人を簡単に折らないでほしい、という久我さんの優しさは伝わってきました。
だからこそ、批判すべきことと、叩き潰してはいけないことの線引きがもう少し見えると、読者も受け取りやすくなるのかなと思いました。
AI創作に必要なのは、開き直りではなく誠実さ。
この言葉は、とても大事な視点だと思います。
久我さん、おはようございます。
「見るべきなのは、その人が何を作り、何を届けようとしたのか」共感します。
AIも道具の1つだから、今は使うのが当たり前だと私は思っていました。
時代の進化で、道具はどんどん便利になりますよね。
だからこそ、AIもうまく使うことで、自分オリジナルが創れると感じます。
思考が深まる記事をありがとうございます🎶