子どもの「えっとね」が消える前に
AIがすぐに答えてくれる時代に、親として待っていたい小さな間の話
どうも、久我レイジです。
僕はAIをかなり使っています。
創作のアイデアを整理するときにも使いますし、文章を見直すときにも使います。何かを調べる入口として使うこともあります。メタバースドラマを作っていると、もうAIを完全に外側のものとして見るのは難しくなってきました。
だからこそ、子どもにAIを使わせることについて、少し怖さもあります。
AIそのものを悪者にしてしまうのは、たぶん違うと思っています。
むしろ、これからの時代はAIをどう使うかで、できることの幅はかなり変わってくるはずです。文章を書く人も、映像を作る人も、仕事で資料を作る人も、日常のちょっとした調べものをする人も、たぶんもう無関係ではいられないところまで来ているんですよね。
ただ、便利だからこそ、距離感を間違えたときに怖さが出てくるんだと思います。
特に子どもにとっては、AIが便利すぎるんです。
わからないことがあればすぐに聞けて、文章に困ったらそれっぽく整えてくれて、意見がまだうまく言葉になっていなくても、AIが先に形にしてくれる。
これ、大人でも普通に頼ります。
僕も、疲れているときほどAIに投げたくなります。考える体力が落ちているとき、AIの返事って妙にありがたいんですよね。頭の中で散らばっていたものを、すっと並べてくれるような感覚があります。
でも、それが続くと、考えたつもりになっているだけなんじゃないかと、少し怖くなることがあります。
便利なのは間違いないんですが、そこに慣れすぎると、考える前に頼る癖まで一緒についてしまう気がします。
子どもがAIに依存するという話をすると、つい「使わせるか、使わせないか」みたいな話になりがちです。でも僕は、そこだけで考えるのは少し違う気がしています。
使わせなければ安心、という時代でもないと思うんですよね。
これからAIは、学校にも、仕事にも、たぶん生活の中にも、もっと自然に入ってくるはずです。そうなったときに、AIを知らないまま育つことが本当にいいのかというと、それもまた難しい。
でも、AIに聞けばいい、AIが考えてくれる、AIが言っているから正しい、という感覚が先に育ってしまうのも、かなり危うい。
だから、子どもに「AIを使うな」と言いたいわけではないんです。
AIに聞く前に、一度だけ立ち止まってみてほしい。何に引っかかっているのか、どこで迷っているのか、どんな答えなら腑に落ちそうなのか。
その一回分の間を飛ばしてしまうと、考える力だけではなく、心の奥にある小さな引っかかりまで薄くなってしまう気がします。
宿題でも、作文でも、調べものでも、最初からAIに答えを作ってもらうと、たぶん楽です。時間も短くなるし、形も整います。
でも、その答えが一度も頭の中を通っていないと、あとに何も残らないんじゃないかと思うんです。
創作でも、これはけっこう身に覚えがあります。
AIにタイトル案を出してもらうことはできますし、構成を考えてもらうこともできます。文章を整えてもらうことだってできます。実際、僕も使っています。
ただ、そこで出てきたものをそのまま作品として出せるかというと、そこにはやっぱり一度立ち止まる時間が必要になります。
この言葉は、本当に言いたかったことに近いのか。
それとも、ただ整っているから納得したふりをしているだけなのか。
ここを見ないまま進めると、きれいなんだけど、どこか自分ではないものになっていく。
子どものAI利用も、たぶん同じなんだと思います。
AIが出した答えを見て「なるほど」で終わらせるのではなく、少し引っかかったなら、その感覚を残しておけるかどうか。
合っているように見えても、どこか変だなと思える余白があるかどうか。
その感覚は、できれば失ってほしくないなと思います。
親としてできることがあるなら、難しい管理ルールを作るよりも、会話の順番を少し変えることなのかもしれません。
AIは何て言っていたのかを聞く前に、その子自身がどう思ったのかを聞いてみる。答えが正しいかどうかだけではなく、どうしてそう考えたのかを聞いてみる。
もちろん、毎回きれいにできるわけではありません。
親だって忙しいですし、疲れている日もあります。そこまで丁寧に向き合えない日も普通にあると思います。僕も、そんなに立派なことを毎回できるとは思っていません。
ただ、子どもがAIに何かを聞いたときに、そこで終わらせない空気だけは作っておきたいんです。
「それで、あなたはどう思ったの?」
この一言を挟めるかどうか。
たぶん、かなり小さなことです。でも、その小さな問いがあるだけで、AIの答えを丸ごと飲み込むのではなく、一度受け止める時間が生まれる気がします。
AIは、あまりにも自然に、しかもかなりそれっぽく答えを出してきます。
間違っていても、堂々としていることがあります。そこがまた怖いんですよね。子どもから見たら、AIの答えは大人の答えみたいに見えるかもしれない。
だからこそ、AIも間違えることがあるという感覚は、早いうちから知っておいた方がいい気がします。AIを先生や神様みたいに見るのではなく、便利だけど普通に間違うこともある相手として見られた方が、たぶん付き合いやすいんですよね。
僕は、子どもにAIを怖がってほしいわけではありません。むしろ使えるようになってほしいと思っています。
ただ、AIがないと考える入口に立てないような状態には、できればなってほしくないんです。
便利な道具を使いこなすことと、判断する場所まで渡してしまうことは違うはずです。でも、その境目はかなり曖昧で、気づいたら越えているような気もします。
これは子どもだけの話ではなく、僕たち大人にもそのまま返ってくる話だと思います。AIに助けられること自体は悪くないけれど、最後に決める場所まで渡してしまうと、自分の輪郭が少しずつ薄くなっていくような怖さがあるんですよね。
子どもは、親がAIをどう使っているかも見ている気がします。便利だから何でも任せているのか、それとも使いながらも最後の判断だけは自分で持とうとしているのか。そういう姿って、言葉より残ることがあるんですよね。
僕もまだ、はっきりした答えを持っているわけではありません。
AIを使わない選択は、もうあまり現実的ではない気がしています。創作でも、発信でも、日常でも、これからさらに当たり前に入ってくるでしょうし、そこから目をそらしても仕方がない。
たぶん僕は、これからもAIを使います。
でも、娘に何かを聞かれたとき、AIの答えより先に「あなたはどう思った?」と聞ける親ではいたいんです。
そこだけは、まだ手放したくないんですよね。
便利なものが増えるほど、人間の側に何を残すのか。
子どものためと言いながら、たぶん僕自身にもずっと返ってくる問いなんだと思います。



レイジさん、おはようございます☺️これ、私もよく考えていました。子どもは特に、便利だからこそ依存しすぎると危険だなぁ…と。これは大人にも言えることですね!自分の頭で考えることを放棄してしまわないように、ちゃんと頭を捻ることを忘れずにいたいです🍀