楽しい沼には、ちゃんと名前がある
どうも、久我レイジです。
最近、あらためて思うんですが、楽しい場所ほど時間を奪ってくるなと感じています。
もちろん、悪い意味だけではありません。人と話せる場所があって、反応をもらえて、知らなかった人の考えに触れられる。そういう環境があること自体は、ものすごくありがたいことです。
特にSubstackみたいな場所は、今のところ空気もやわらかくて、人との距離感も近い。だからこそ、ついつい覗いてしまうんですよね。
ちょっとコメント返そうかなと思って開いたら、誰かの投稿が目に入って、それに反応して、さらに別の人の文章を読んでいるうちに、気づけばそこそこ時間が経っている。
しかも、その時間が完全に無駄かと言われると、そうでもないのが厄介です。
交流は大事ですし、発信のヒントもあります。人との繋がりから生まれるものも、確かにあると思います。
ただ、そこで一日が終わってしまうと、作品は進まないんですよね。
僕の場合は、動画編集もあるし、脚本もあるし、告知文も書かなきゃいけない。新しい作品の準備もあるし、今やっていることを外の人に届けるための導線も作らないといけない。
編集ソフトを開いているのに、気づいたら画面の横で通知を追っていることがあります。コメントに返信して、少しだけ誰かの投稿を読んで、そこからまた別の人の言葉が気になって・・・そんなふうにしているうちに、最初に開いていた編集画面だけが、ずっと同じ場所で止まっている。
これ、けっこう怖いんですよね。
なにもしていないわけではない。むしろ、ちゃんと活動している感覚はある。誰かと話しているし、発信もしているし、自分の名前も少しずつ外に出している。
でも、作品そのものが進んでいない日がある。
ここを見落とすと、あとでじわじわ苦しくなります。
「交流していたから」
「発信の勉強にもなったから」
「刺激をもらえたから」
そうやって、自分の中でちゃんと理由が作れてしまう。これがいちばん厄介なのかもしれません。
可処分時間って、言葉にすると少し難しく聞こえますが、要するに「自分が自由に使えるはずだった時間」のことなんですよね。
お金なら、使えば財布の中身が減ったことに気づきます。でも時間は、その場ではあまり減った感じがしない。楽しく過ごしているうちは、むしろ充実しているように感じることもあります。
でも、一日の終わりに編集画面を見て、「あれ、今日ここまでしか進んでないのか」と思った瞬間、急に現実が戻ってくる。
この感じ、創作している人ならけっこうわかるんじゃないかなと思います。
だから僕は最近、朝か夜に一度だけ、「今日は何に時間を使う日なのか」を見るようにしています。
ガチガチの時間割までは作りません。そこまでやると、たぶん僕は逆に窮屈になって続かないです。ただ、今日の時間の使い方が、作品を少しでも前に進めるものになっているかは、たまに見ないと危ないなと思っています。
交流する日があってもいいし、発信に時間を使う日があってもいい。
けれど、作る時間だけは、どこかで守らないといけない。
結局、僕が本当に残したいのは、タイムラインにいた時間そのものではなく、作品なんですよね。
もちろん、その時間の中で出会った人や言葉が、作品に繋がることもあります。だから切り捨てる必要はないんですが、飲まれっぱなしになるのは違う。
たぶん、楽しい場所とは少し距離を取りながら付き合うくらいで、僕にはちょうどいいのかもしれません。
冷たくなるという話ではなく、自分が本来向かいたかった場所を忘れないために、たまに足元を見るような感覚です。
明日も、僕はまた同じことをやると思います。
楽しい方に流されるし、通知も見るし、誰かの言葉に反応もする。そこから何かが生まれることもあるので、それ自体を悪者にはしたくないです。
でも、それでも戻ってくる場所だけは間違えたくない。
さて、少しだけでも作品を進めますか。
そう思えるところまで戻ってこられるなら、今日の時間の使い方も、まだなんとか立て直せる気がしています。



久我さーん!
めちゃくちゃ分かりみしかありません😭
創作と交流のジレンマをずっと抱えています。
だからこそ、自分に出来ることにスポットライトをあてて、輝かせてあげたくなります。